自分が変われば世界が変わる!という誤謬
・世界は他者が変える
よく「自分が変われば世界が変わる」っていう人、いますよね。オノ・ヨーコさんとか辻仁成さんとか。個人的には好きな方々なのですが、その論拠に関しては怪しいと思います。個人的に、好きでない人もこういいます。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」*1
何らかの形で構造が変化しなければ影響を受ける自分は変わらない。そういう意味で、私は「世界を変えてから自分がそれに追随するもので自分もようやく変わる」、というのが変容の過程だと考えています。これはかなり世界を変えるにあたっては重要なことなのですが、それでも、頑なに「自分が変わらないと世界は変わらない」というひともいます。
自分が変われば、世界が変わる!学級目標とかスローガンみたいでパトスに溢れていてカッコイイですね。
優等生はどうにでもなるからそういっていたらいいのですが、こちとら単なる野生の製造業者なので、そういう話には乗れないのです。我々『ハマータウンの野郎ども』*2には、いくら学校権力に逆らっても、最後には労働への服従しかないのです。自分を変えようとして、自己啓発に励んだり、自分磨きに励んでも、です。
たとえば、*3中小下請けが変わったら、大企業が変わるのですか?そんなまさか。変わるわけがない、っていう。これは当然の肌感覚です。
また、構造を変化させるトリックスターによってロードローラーが提示されずに、そこからイラストも盛り上がらず、突然誰かが話を突っ切ってロードローラーに乗った鏡音リン・レンを作り出すでしょうか。そんなことは論理の飛躍であり、不可能です。
そういうわけで、「人間革命」も「世界を変えるにはまずは自分から」も、同時に否定されます。
・「実存は本質に先立つ」はまた誤謬である
同じ理由で、「実存は本質に先立つ」という主張は微塵も受け入れられないなあ、と。*4考え方としては、構造の影響を受けて「存在」があるわけで、その真正性である、もっと雑にいえば「本質」に先立って、「実存」があるわけない、のではないでしょうか。
雑にいえばといっておいてなんだけど*5、静的な存在の点である「実存」も「本質」も、たとえば絶えず揺らぐ音素のその揺らぎのほんの一部の描写でしかなくて、実際に揺らぎは一点の静的な描写で捉えられるものではないから、あまり使いたくない術語ではあります。*6一方で「真正性」という括りであれば、何らかの存在をザル、いえ、広く捉えることができます。
・手はないのか
「世界が変われば自分も変わる」のではないでしょうか。だから、絶えず自分を変えるのではなくて、世界を変える努力をしなければいけません。それは、普遍性、完全な普遍ではないそれ、をひっくり返すのではなくて、むしろ普遍性の形を変えるにはどうしたらいいか、考えること、働きかけることが重要ではないでしょうか。
たとえば、議員や首長に陳情・請願するもいいし、また、社会を掻き乱し、前提をひっくり返しては、文化を活性化させるというトリックスターを目指すのもひとつでしょう。
そういう場合に、つまり世界を変えるだけの平等を担保するためには、その舞台がいつでも多様性に寛容であり、また閉鎖的でない必要があります。そうでなければ、陳情もトリックスターも入り込む余地がなく、同時にそれは社会・文化活動を停滞させることになります。市議レベルでも自営業の支援が中心である昨今、陳情やデモ活動よりもむしろ後者の方が有効性が見込めます。
上から下へ、斜めから斜めへ、また横断的に、時間も使って、物語を反転させるトリックスターになる。その反転に、ときに身を委ねる文化の紡ぎ手になる。どちらも魅力的であり、まさに「世界が変わることで自分が変わる」ことを体現しています。