ウクライナをめぐる世界史 - 歴史からユーロマイダンまで
ウクライナをめぐる世界史 1. ロシアのはじまり
Rin KAGAMINE and Yulia Tymoshenko.
はじめに
ウクライナという国に興味を持ちましたが、それは私には大変複雑で、よく分からないものです。それで、用いる語の範囲を高校で学ぶ世界史の範囲に限定しつつ、自分なりにまとめてみようと考えました。まずは、民族大移動の話からはじめます。
ノルマン諸国
ノルマン人は、ヴァイキングとしても知られていたゲルマン人の一派で、スカンディナヴィア半島*1やユトラント半島*2に定住していました。8世紀末から、彼らは各地に移動し、諸国家を形成しました。9世紀半ば*3には、リューリクという、スェーデン系ノルマン人ルーシ*4の首長が、ノヴゴロド国を建国し、毛皮の交易の中心地としてさかえました。*5さらに9世紀の後半*6には、オレーグの率いるノヴゴロド国の一派がドニエプル川流域まで移動し、キエフ公国を建国します。ウラディミル1世のとき最盛期を迎え、ビザンツ(東ローマ)帝国皇帝*7の妹と結婚し、その文物を導入するなど活発に交流し、ギリシア正教に改宗しています。また、彼らは次第に、ロシア人やウクライナ人*8からなる東スラブ人と同化していきました。
バトゥの遠征
農民の農奴化と貴族の大土地所有が進み、キエフ公国が衰退すると、オゴタイ=ハン*9は、甥のバトゥに西征を命じ*10、キエフ公国は彼に征服されます*11。バトゥは南ロシアのサライを都にキプチャク=ハン国を建国します。ロシア人は、以降240年に渡りモンゴル支配に服したこの時代を「タタールのくびき」と称しました。
モスクワ大公国
15世紀、キプチャク=ハン国が衰退すると、1480年、商業都市であったモスクワを中心とした、モスクワ大公国のイヴァン3世が自立し、東北ロシアを統一します。彼は最後のビザンツ皇帝の姪ソフィアと結婚し、ツァーリを名乗りはじめます。イヴァン4世のとき、農奴制を強化し、大貴族を弾圧し、またコサックのイェルマークにシビル=ハン国を制圧させ、その後のシベリア方面進出への足がかりとします。これが、今日に至るロシアの基礎へつながるのです。
ウクライナがない
ところが、これはあまりウクライナとつながらないのですね。なんでだろう。というのをこれから考えます。
ということで次は、①リトアニア大公国②ポーランド・リトアニア共和国キエフ県=黒海沿岸地方はオスマン帝国の管轄③コサックが自治権獲得しヘーチマン国家建国④結局ロシア帝国により併合される、というあたりを描き出します。
ウクライナをめぐる世界史 2. キエフとクリミア
ウクライナの支流
ここまでは、用いる語の範囲を高校での学習程度に限定しながら、ノルマン人の移動からはじめて、これらがロシアの紀元となる過程を描きました。今回は、そのロシアに再び帰属していく過程を考えます。
ウクライナというときに①古来ルーシ時代から駆け引きに失敗し続け、多方面から幾度となく支配を許した中間緩衝都市キエフ②タタール系クリム=ハン国としてオスマン帝国やロシア帝国、ソ連に転属したセヴァストポリ周辺とクリミア半島、の両面を分けて、最後に③ソ連崩壊後のウクライナと、ユーロマイダンでの衝突に行き着くのです。これで、ようやく手元の素材だけで、ウクライナなるものがみえてきた感じがしないでしょうか。
風呂敷を広げても簡潔ではないので、ここではまず①と②を考えます。
キエフ
14世紀、キエフはリトアニアの支配を受け、その後ポーランドにキエフ県として帰属します。
インド=ヨーロッパ系のバルト語系であるリトアニア人は、13世紀にドイツ騎士団に対抗して国家を統一します。このとき、ポーランド人、チェック人などからなるカトリックを受容した西スラブ人のうち、ポーランドの女王とリトアニア大公ヤゲウォが結婚し、同君連合国家であるリトアニア=ポーランド王国が成立します。これを受けて、キエフはポーランド側への帰属を求め、その結果ポーランド王国に分割されるのです。
その後、17世紀半ばから18世紀末にかけては、ドニエプル川の中流にコサックによる国家が成立し、今度はそのコサック国家にキエフは従属します。コサック国家はロシアとの関係が深く、またリトアニア=ポーランド王国からも自治権を得ましたが、ロシアとの政争に破れ、その一地方として支配下に入ります。
クリミア
黒海北岸のクリミア半島では、まずキプチャク=ハン国が、イスラーム国であったクリム=ハン国とロシアにより滅ぼされます。クリム=ハン国はオスマン帝国支配下で栄えますが、18世紀後半ロシアに併合されます。
ウクライナの現代 - 新政府の暫定首相ヤツェニュクさんについて
日本語がなかったから、暫定的に英語のWikipediaをちょっと訳してみた感じ。正確さに責任は負いませんがキチンとやってはあります。転載なり項目作るなり参照なり、ご自由にどうぞ。逐次追加します
Arseniy Petrovych Yatsenyuk (Ukrainian: Арсеній Петрович Яценюк, Arseniy Yatseniuk; born May 22, 1974) is a Ukrainian politician, economist and lawyer and current Prime Minister of Ukraine. [1] Yatsenyuk served in the government of Ukraine as Minister of Economy from 2005 to 2006; subsequently he was Foreign Minister of Ukraine in 2007 and Chairman of the Verkhovna Rada (parliament) from 2007 to 2008. Currently he is one of the leaders of Ukraine's second biggest party[2] All-Ukrainian Union "Fatherland" and leader of the parliamentary faction of "Fatherland".[3][4][5]
アルセニー・ペトローヴィチ・ヤツェニュク(1974年5月22日〜)はウクライナの政治家で経済の専門家、弁護士、そして現ウクライナ首相である。ヤツェニュクはウクライナ政府に2005年から2006年まで経済相として入閣すると、続いて2007年に外務相、さらに2007年から2008年までは国会で議長を勤めた。現在はウクライナで第二番手規模の野党勢力「全ウクライナ連合・祖国」の指導者のひとりであり、議会政党としての野党第一党である「全ウクライナ連合・祖国」党首も務める。
■Early life 初期
Arseniy Petrovych Yatsenyuk was born on May 22, 1974 in Chernivtsi, Ukraine (then part of the Soviet Union). He was born in a family of professors of the Chernivtsi University. After Yatsenyuk began studying at the Chernivtsi University in 1992, Yatsenyuk set up a student law firm.[6] He graduated from the university in 1996, and later attended the Chernivtsi Trade-Economics Institute of the "Kyiv National Trade-Economics Institute" in 2001.[7]From December 1992 to September 1997 he was the president of "Yurek Ltd." law firm, based in Chernivtsi.[7] From January 1998 until September 2001, Yatsenyuk worked in the Aval bank, based in Kiev.[7]
アルセニー・ペトローヴィチ・ヤツェニュクは1974年5月22日、旧ソビエト領ウクライナのチェルニウツィーに生まれた。家族はチェルニウツィー大学の教授であった。ヤツェニュクは1992年チェルニウツィー大学に入学し、そこで法学を専攻した。1996年に大学を卒業し、その後はキエフ国家貿易経済研究所傘下のチェルニウツィー貿易経済研究所に2001年まで勤務した。
1992年12月から1997年9月まで、彼はチェルニウツィーに基盤を置く法律分野の会社Yurek Ltdで会長をつとめた。1998年1月から2001年9月まで、ヤツェニュクはキエフのAval bank(保険会社?)で働いた。
■Political career 政治活動
From September until November 2001, Arseniy served as an "acting" Minister of Economy of Crimea, and from November of the same year until January 2003, served as the official Minister of Economy of the Autonomous Republic of Crimea.[7]From November 2003 to February 2005, Yatsenyuk served as the first vice-president of the head of the National Bank of Ukraine under Serhiy Tyhypko.[6] After Tyhypko left the National Bank, Arseniy Yatsenyuk was put in charge of the National Bank.[6]After Vasyl Tsushko was appointed as the new Governor of Odessa Oblast, Tsushko asked Yatsenyuk to serve as his vice-governor, which he served from March 9 to September 2005.[6][7] From September 27, 2005 to August 4, 2006, he served as the Minister of Economy of Ukraine in the Yekhanurov Government.[6][8] Arseniy Yatsenyuk then headed talks about Ukrainian membership in the World Trade Organization. Yatsenyuk also heads the Ukraine-European Union commission.From September 20, 2006, he served as the first vice-president of the Head of Government of the President of Ukraine, and the representative of the president in the Cabinet of Ministers of Ukraine.[9]Arseniy Yatsenyuk was proposed for the post of Foreign Minister by the President of Ukraine, Viktor Yushchenko. Yatsenyuk was chosen for the post by the Verkhovna Rada (parliament) on March 21, 2007[10] with 426 votes (from 450 maximum),[11] but only after the Ukrainian parliament twice denied the post to Volodymyr Ohryzko.
2001年9月から11月まで、ウクライナ領クリミア自治共和国で経済相の実務を代行し、同年11月から2003年1月までは公式の財務相であった。
2003年11月から2005年2月まで、ヤツェニュクはSerhiy Tyhypkoの下で、中央銀行であるウクライナ国立銀行で初代の副頭取として勤務した。Tyhypkoが国立銀行を去ると、ヤツェニュクは彼の代わりに国立銀行の頭取を務めた。Vasyl Tsushkoが新たにオデッサ州の知事に任命されると、彼はヤツェニュクに副知事を依頼し、彼は2005年の3月から9月までこれを引き受けた。2005年9月27日から2006年4月4日まで、ユーリ・エハヌロフ政権下でウクライナの経済相を歴任する。そして、ヤツェニュクは世界貿易機関へのウクライナの参加交渉ではその先頭に立った。彼はまたウクライナとEUに関する諮問機関での活動でもその先頭に立った。
2006年9月20日よりウクライナの行政の長であるウクライナ大統領から最初の副大統領に任命され、内閣では官房長官として働いた。
ヤツェニュクはウクライナ大統領であるユシチェンコから外務大臣の職を要請された。彼は2007年3月21日の議会で450票中426票を得て議会承認されたが、その直後のウクライナ国会では、ヴォロディームィル・オフルィーズコに対して二度の解任を行い、そのポストを与えていない。
■Speaker of the Parliament 国会議長として
In the early parliamentary elections held on September 30, 2007, Yatsenyuk was elected to the parliament from Our Ukraine–People's Self-Defense Bloc (number 3 in the bloc's member list). On December 3, 2007, he was nominated for the position of the Chairman of the Verkhovna Rada from the democratic coalition formed from the Yulia Tymoshenko Bloc and Our Ukraine–People's Self-Defense Bloc.[13] On December 4, 2007, Yatsenyuk was elected the Chairman of the Parliament.[14] His candidacy was the only in the ballot, and he obtained 227 votes in favor (from the democratic coalition; opposition abstained from the voting).[15]During the Ukrainian political crises of September 2008 Yatsenyuk offered his resignation on September 17, 2008. A vote on his dismissal on November 11, 2008, was declared invalid by the counting commission of the Parliament[16][17] (the vote was proposed by opposition party Party of Regions).[18]On November 12, a total of 233 of 226 required deputies satisfied the resignation statement of Yatsenyuk and thus dismissed him from his post of Chairman of the Verkhovna Rada.[19][20] The voting was carried out through the parliaments voting system and not by means of secret ballots, as stipulated by the parliamentary regulations.[21] After his dismissal Yatsenyuk told journalists that he will form a new political force "for change in the country."[22][23]On November 21, 2008 Arseniy Yatsenyuk was also dismissed by President Viktor Yushchenko from the National Security and Defense Council.[24]On January 25, 2014, Arseniy Yatsenyuk was offered a Prime Minister government post by President Viktor Yanukovych but he refused due to the unmet demands. Yatsenyuk said that the people should be making a decision for the future of Ukraine not the present government officials.[25]
最初の国会議員選挙は2007年9月30日に行われ、小選挙区第3区から立候補し当選した。同年12月3日、彼はティモシェンコ派やOur Ukraine派などから推薦され、12月4日にはウクライナ国会議長に選出された。このときの投票では227票を獲得している。
2008年9月の政治動乱では同年9月17日辞任に追い込まれている。また同年11月11日に行われた解任要請決議は不正投票であるとヤツェニュクは主張している。
11月12日には、解任に必要な226票に対して233票が集まり、これによりヤツェニュクは国会議長職を放免された。議長職を追われた後、彼はジャーナリストに、革命のための新たな政治勢力を結成する意思を明らかにしている。
2014年1月25日、ヤツェニュクは、不在であるヤヌコビッチ首相に政府の首相職を要請されたが、これを辞退している。ヤツェニュクは、大統領政府の公式見解によらず、ウクライナの将来について国民が決断をすべきであると述べている。
■2010年の大統領選挙
(略)
■Political positions 政治姿勢
Yatseniuk does not want Russian to become the second state language in Ukraine.Yatseniuk wants European Union membership for Ukraine.[65] and he sees this "because this means standards and values – a [high] level of education, medical treatment, pensions, employment, freedoms, new technologies, and progress".[65] Yatseniuk stated late 2009 that in its relations with the European Union, Ukraine should have a visa-free regime with EU countries.[66] Yatseniuk stated on 20 April 2012 it was clear to him that the European Union will not sign the association agreement "until fully fledged democracy is resumed in Ukraine, free and fair elections are held, and the political persecution of opponents is stopped in Ukraine".[67] Yatseniuk is against Ukraine joining the Customs Union of Belarus, Kazakhstan and Russia; according to him "Ukraine's joining the Customs Union means the restoration of the Soviet Union in a slightly different form and with a different name.But this means that the country will become a part of the Russian empire. We know history. We have been there and we don't want to return there".[65]On 21 August 2013 Yatseniuk stated "Russia has decided for some reason that it can be the architect of a new Berlin wall. And, according to Russia’s design, this wall should appear at the border between Ukraine and the European Union".[68]
ヤツェニュクはロシア語をウクライナの第二公用語とすることには否定的である。
ヤツェニュクはウクライナのEU加盟を求めており、それが「高い教育水準、医療福祉、年金制度、雇用、自由、新技術と発展という標準に合わせるということであり、価値あることだ」と考えている。
2009年の暮れにはEUとの協調を明確にし、ウクライナはEU諸国とビザなしで往復できるようにすべきと述べた。
ベラルーシ・カザフスタンおよびロシアにかかる税制(?The Customs Union of Belarus, Kazakhstan, and Russia)への参加には反対であり「ウクライナの参加は、大して中身に変わりがなく名前を変えただけのソビエト連邦が復活することを意味する。けれどもそれは、ロシア支配下の一部になるということでもある。歴史的にはどうか。ここにいる我々は、その支配下に戻ることを望んでいない」と述べた。
2013年8月21日ヤツェニュクは「いくつかの理由から、ロシアは新しい構造の『ベルリンの壁』を建設している。そして、ロシアの設計により、ウクライナとEUの間に建設され両者を妨げるだろう」と述べた。
参照資料
世界史教科書 山川、駿台の世界史用語集、その他プリントなど
*3:862年
*4:ルス族ともいいます
*5:ロロによるノルマンディー公国など、ノルマン人の移動は、その後の封建制や貨幣経済の流通などに影響を及ぼします
*6:882年
*8:東スラブ系で、ロシア南西部に居住
*9:モンゴル部族を統合し帝国を築いたチンギス=ハンの第3子
*10:バトゥの遠征
*11:西征はその後ワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を撃破します
ウクライナとロシア、独仏米。グレーゾーンの立ち回りを簡潔に
概要
事実上のロシア軍がクリミア自治共和国に入っている状態。地元の自衛組織に手を貸した、という建前で、実際には手際よく要所をおさえてしまった、という状況。同時に行われていたロシアの「軍事演習撤退」を材料に為替と株は世界的に高騰するも、噂で買っている状態。*1
有事安全保障と情報収集の程度
IAEAはインターファックスが当初ウクライナ限定で伝えたロシアの最後通牒という情報を元にして、当該国内の原発4カ所15基の保安を行っていた。最後通牒に関してはその後、ロシア側から否定される。昨年のウクライナ総発電量に占める原発の割合は44%で、火力も同様の立地。*2
その後の交渉進展
クリミア実行支配中のロシアとウクライナを交渉の席に着ける米国の努力は失敗に終わったとNYT。記事から読み解ける進展はない。独仏外相はロシアに制裁を課す方向で動いているが、ウクライナの要請を受諾する形で、欧州安全保障協力機構(軍事制裁)も含めた規模でロシアに圧力をかけている。実は2011年にフランスから兵器輸送能力のある軍艦をロシアに売っているのだけれども、時期が悪かったとも。*3
UenoToshihiko 昨日あたりからウクライナに関連する要人の電話の盗聴内容がYouTube等で流されている。1つは、パエト・エストニア外相とアシュトンEU上級外交代表との会話、もう1つは、ヌーランド米国国務長官補とパイエト駐ウクライナ米国大使との会話だ。 |
一方で、エストニア外相とEU外交安全保障高官の会話内容がつべに。内容は、ユーロマイダンへの狙撃が、ユーロマイダンの内部の人物が狙撃手を雇い行ったことを示唆するもの。ウクライナ政変の大義を揺るがすものではあるが、だれが出したかは不明。*4この情報により、たとえば米国防省が提示したプーチン氏に対する批判*5は矛盾することになる。
誰がクリミアを掌握しているのか
ロシア軍である。ルーブルで買い物をしようとしたそうだ。これに関しては朝日新聞の関根記者が現場に入りこのように伝えている。
usausa_sekine クリミア47)敷地内のカフェで働く女性によると、ロシア軍が到着したのは2月28日午前4時ごろ。約10台の輸送車があったといいます。「カフェで買い物をするのにルーブルを出そうとして頭に来た。両替しなさいって言ってやった」と女性。 http://t.co/3BO3StjdSo |
CNN*6では「ロシア兵士との見方」という報道にとどまっているものの、こういう時代であるから、建前はプーチン氏のいう通りで、しかし実態はロシア軍である。わが国と米国における報道姿勢や事実確認の水準の違いを知ることができる。
米軍制服組トップのデンプシー統合参謀本部議長は5日、クリミア半島地域で活動が確認されている謎の武装兵士がロシア軍であるとの証拠はまだ入手していないと述べた。その上で、時間が経過すれば証拠は得られるだろうとの見通しも示した。ロシア系住民が多いとされるクリミア自治共和国ではウクライナの新政権に反発し、ロシアへの帰属の是非を問う住民投票も近く予定されている。同共和国内の軍拠点では制服の記章を外した武装部隊の活動が目撃され、ロシア軍兵士との見方が強い。
*1:2014年3月6日14時の前後は対ドル102円70銭、東証は300円の株高
*2:このことから、情報は錯綜していただけではなくて、当該地域の情報収集にかかる水準は低い、ということが分かる。参照:ロイター5日報
*4:参照:エストニア外相の通話内容が流出 釈明に追われる - 静岡新聞
*5:「プーチン大統領がウソつきである10の証拠」アメリカ国務省が掲載【ウクライナ問題】 - ハフポ
*6:ロシア軍、演習終了後も部隊多数が撤退せず ウクライナ情勢 - CNN
注:この記事は、過去に公開していた記事複数をまとめたものです。ご了承ください。