たのしいお勉強

たのしいわけないだろ

民主主義的なロシアがウクライナで虐殺をするまで

シリアやネパールで虐殺があっても知らぬ存ぜぬでいるのに、たまたま事情が重なったときにだけ出てきてここぞとばかりに「人道!戦争犯罪!」というのは不気味だなあ。読める言葉が少ないから何も知らないのかもしれない。不思議なもので。

 

それでも、殺りくや侵略を許容することはないですね。個人的な意見ですが。


一方で、こうした戦争犯罪は中央集権が成立しているあらゆる国家において起こりうることで、別にロシアがウクライナがということではないと考えてしまう。プーチン氏がプーチン朝みたいな帝国を築いているわけではないでしょう。

 

そこでフーコーの、権力は下からやってくる、という提示を思い出してしまうわけで。たとえば、佐々木俊尚氏は自発的に戦争を望んだ国民像を描くけれども、まさにロシアにはそういうファシズムがあるのではないでしょうか。プーチンやラブロフといった悪役が主導してそうなる、わけではないのでは。

 

例えばこういうデータも/プーチン大統領 支持率 “4年ぶりに80%超” 独立系の調査機関 | NHK | ロシア

 

もっと人を「動かす」ような「構造」から分析しないと。悪役ばかり立ててもきりがない。私、もう戦争の悲惨さを訴える情緒的なもの、子供の戯れのようなものには正直、飽きているので。そういう立場からは、戦争なら自国の主権を身を挺してでも守れ、いいや逃げろ、という二局対立はどうでもいいのです。

 

そういう場からいえば、いっときの感情に流された世論調査は無意味なんだと。たとえば、ここぞとばかりに核共有とかいいはじめる海洋政策が好きな政治家がいるけれども、そういうものではないのでは。安全保障の問題ではなくて、第一義は結局、国民民主主義の集合の誤謬に突き当たってくる。

 

もちろん、あらゆる可能性は議論の場があるべきなのだけれども、それでも結局は下からの意見を突き合わせた民主主義政治家プーチン氏の、下からの意見を集合的に拾った結果としての虐殺になったのではないかと。その前提で話をしないと何も進まない。

 

抽象化すれば、フーコーのいう規律訓練としての権力(たとえば工場のそれ)→ドゥルーズや後期フーコーのいうような公衆衛生から偏在して数値化・数学的に一貫して決定する権力(たとえば揺り籠から墓場まで)→結果、解体・個別化された共同体。ここから、ベックのいう「リスク社会」としての政治介入。

 

つまり、よくいう中世のような帝国ロシアではなくて、選択権が国民に広く行き渡ったロシアで、民主主義的に決定された虐殺(ロシア軍ならやる、と誰もが知っている)が行われた、ということでは。

 

ツイートしたものを雑にまとめました。私は頭が悪いので、何かご意見があればご教授願いたいです。